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やすんごのギリシャ・イタリア紀行(その14)
コリントスの物語
   

(コリントスの歴史)

 ヘラ神殿を後にコリントスに向かう。

 左手に非常に高い山があり、そこにコリントスのアクロポリスである「コントポリス」がある。ただし、川島先生によるとこの場所は高すぎるので本来のコントポリスは別の場所にあったのではないかとのこと。このコリントポリスは、中世には、ナフプリオと同じくやはりヴェネチアの城砦が築かれた場所となっている。
  
 コリントスの町は、繁栄と没落を繰り返している。ペロポネス半島とギリシャ本土を結ぶイストモス地峡に位置し、交通の要衝として、貿易を独占するとともに、通行税をとり、紀元前6世紀に勢力を伸ばした。しかし、紀元前5世紀はアテネの時代であり、コリントスは落ちぶれる。しかし、マケドニアのアレキサンダー王の時代になると、王はコリントス同盟を作らせて、この地をギリシャの中心にする。したがって、ヘレニズム時代の政治・文化の中心地である。コリントスの守り神はアフロディーテであり、神殿には1000人もの聖娼がいたという。

 紀元後1世紀に使徒パウロはコリントスを訪問し3年滞在して布教を行った。コリントスはローマ帝国の時代においても属州ギリシャ(アカイヤ州と呼ばれた)の首都であったため、ギリシャ世界の中心であったからだ。彼の「コリント人への手紙」の中で、コリント人の不道徳な行いを戒める部分があるというが、こうした娼婦が多い町であったことも関係しているのだろう。

(コリントス遺跡)

 コリントス遺跡は、現在のコリントス市街とは離れた場所にあるため、発掘が進んでおり、観光客もよく訪れる場所となっている。この場所の発掘は米国が中心に行っており、若き日の川島教授もここで発掘事業に関わったそうだ。

 コリントス遺跡で最初に目につくのは、やはり巨大な列柱。ここはアポロン神殿だ。ドーリア式の単純だが非常に力強い柱が天をつく。後ろに見えるコントポリスの高い山に対して力強い神殿が調和する。コリントスの神殿だからコリントス様式ではないかと勘違いするが、それはローマ時代にギリシャ植民地の総督府がコリントスにおかれてからの様式である。ギリシャ本来の柱の様式としては、ドーリス式、そしてイオニア式が基本になるのであろう。

 
 コリントスのアポロ神殿
ドーリア式柱が雄大
 

(コリントスを巡る物語)

 このコリントスにまつわるのは、@ギリシャ悲劇のオイディプス王の物語、A同じくメディアの物語、Bキリスト教伝承にまつわる使徒パウロの物語、Cギリシャ神話の物語である

 第一に、オイディプスだが、ギリシャ三大悲劇作家ソポクレスの作品であまりに有名だ。

 テーバイ王のライオスと妻イオカステの子に生まれたオイディプスだが、子どもに殺されるとの神託の実現をおそれたライオス王は生まれたばかりの子の足に釘をうってその子を殺すように羊飼いに命じた。しかし、憐憫の情に駆られた羊飼いにより殺されず山中に捨てられることになる。この赤ん坊は、拾われ、腫れ上がった足という意味のオイディプスという名前をつけられて、コリントス王のポリュボスの息子として養育される。
 ある時自分の素性に疑念を抱いたオイディプスは、真実を求めデルフィの神託を求めるが、「父親を殺し、母親と結婚する」との恐ろしい内容の神託を告げられる。オイディプスは故郷と信じるコリントスには帰らない決心を固めるが、旅の途中にささいな諍いから、旅人を殺してしまう。この旅人、実はテーバイ王であり、オイディプスの真の父親ライオスであった。
 やがて、テーバイに到着したオイディプスは、王が失踪して混乱のさなかのテーバイで、みごとスフィンクスの謎を解いて、テーバイを救う。この功績により、テーバイ王に就任することを求められたオイディプスは、王女イオカステ(実の母親)と結婚して王に就任することになる。子供も4人もうける。その後テーバイで疫病がはやるが、その原因はテーバイ王を殺した穢れた人物のせいとされ、オイディプスは王殺しの犯人を捜し出そうとする。やがて、真相が解明され、オイディプスは、自分が父殺し、王殺し、母親と結婚した張本人であることを知る。イオカステは自殺し、オイディプスは、自ら目をくりぬき、旅に出る。

 あまりにも有名なギリシャ悲劇であるが、その舞台のコリントスを訪問することは非常に興味深い。
  
 第二の関連する物語は、メディアだ。

 私自身、大学時代に読んだはずだが、あまり記憶にない。夫イアソンの世俗的な欲望により捨てられた妻のメディア(かつてのコルキス王女)は、夫が結婚しようとする相手を殺害するとともに、夫を最も苦しめるために自分にとっても子供である子供たちをも殺す。この舞台がやはりコリントスである。

 遺跡の一部に泉が残っており(といっても現在は水も枯れているが)、この泉から物語が始まる。

 第三には、使徒パウロの布教活動だ。
 史料を解読すると、使徒パウロがコリントスに滞在したのは、紀元後51年、52年に当たるという。例のアテネでの説教の後だ。元々は、ユダヤ教の司教であり、キリスト教に反対するべき立場であるが、ユダヤ教改革派からキリスト教に改宗し、キリスト教の理論的な基礎を作り、かつ、布教活動を進めた人物である。
 イエルサレムに発したキリスト教が、ローマ社会の中でパウロの時代にギリシャまで到達し、さらにローマを目指していく、という原始キリスト教の創世期にとって重要な場所がコリントスであった。というのも、1世紀当時は、ギリシャ世界の中では一番繁栄していた町がコリントスであったからだ。

 コリントスの裁判所ベームにおいて、ユダヤ人が使徒パウロを邪教普及の罪でローマ帝国の執政官に訴えたところ、ローマ執政官は、ユダヤ人の内部のもめ事は内部で解決せよということで門前払いをしたということが新約聖書に書かれている。このベームは今も残っている。川島先生の説明では、このベームというのを日本語訳の聖書では裁判所のように訳しているが、市民が自由に演説を行う討論台のようなものであったと解釈する方が正しいのではないかとのことであった。

 使徒パウロの「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙」のエピソードが語るように、原始キリスト教普及時代の重要史跡としてコリントスの名前は刻まれている。

 このように勉強をしていくと、聖書でも読んでみたい気になってくる。

 
 
 
   
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