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やすんごのギリシャ・イタリア紀行(その31)
フィレンツェからボローニャ
   

(ミケランジェロ広場)
 
 ミケランジェロ広場がフィレンツェ最後の見学場所である。7:45という朝早くにホテルを出発し、バスで10分ほど高級住宅地のある丘を登っていくと「ミケランジェロ広場」に到着する。

 町からみて川向こうの高台に位置するこの場所は、町の全貌を見渡すことができる。ドゥオーモをはじめとする教会の数々、ウフィツィ、ポンテベッキオなどが眼下に広がる。フィレンツェの町では屋根はすべて同じ赤茶色の屋根瓦でふかれているので、景観に統一感が生じ、非常に美しい。

 この広場の真ん中には、ミケランジェロのダビテ像のブロンズ製のレプリカが置かれている。このダビテ像の足下には、朝、夜、曙などを象徴する4人の像がある。

 ここでは、町を眺め、記念撮影をする。以上で、フレンツェのすべてのプログラムを終了して、次の目的地であるラヴェンナに出発する。

 
 ミケランジェロ広場からみた町
 

(ボローニャのそばを通過)

 フレンツェからラヴェンナに行くためには、イタリアの背骨であるアペニン山脈を越えなければならない。その途中でボローニャのそばを通過していくこととなった。

 ボローニャは、ロマーニャ・エミリア州の州都である。ローマ帝国時代から交通の要所にあるため繁栄してきた町であるが、フランスからボーイ族が侵入して居住した。このため、ボーイ族にちなんでボローニャという名称がついたという。476年にローマ帝国の崩壊とともに、この地域には東ゴート族が侵入してきた。以後、ボローニャは、東ローマ帝国と東ゴート族の間で争奪戦争の対象となる。戦乱により荒れ果てたが、戦争が落ち着くにつれ人口が復活した。

 ルッカからある男が紡績機械を伝える。人力の紡績機械であったが、動力をレーネ川の水力を利用して自動化。絹産業が非常に栄えた。13世紀、14世紀は、ボローニャが欧州で5番目に大きな都市になり、富も、人口も集中した。

 イタリア半島では、ゴート族の習慣、ゲルマン民族の規則やローマ法も残り、不動産の所有権に関する法律の規定がばらばらであり、混乱していた。このため、イルネリウスが不動産関連の法規を研究するために研究所を作った。これが世界で初めての大学であるボローニャ大学の起源である。中世には、このボローニャ大学の名前もとどろいていた。ボローニャ総合大学では今でも6万人も学生がいる。ただし、日本のようなキャンパスはない。

 ボー川により作られた平野、ボー平野は粘土質の大地であり、地震には強いとのこと。冒頭にも書いたように、ボローニャは訪問せずにそばを通過しただけである。

 
 
 
   
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