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やすんごのギリシャ・イタリア紀行(その42)
マリアとユダ
   

(ダビンチ・コードの解釈とマグダラのマリア)

 この「最後の晩餐」は、ヒットした映画「ダビンチ・コード」で取り上げられている。この映画では、イエスの向かって左に描かれた人物がヨハネではなく、マグダラのマリアであるとの解釈に基づき、ストーリーが展開していく。映画としては大変おもしろい話であるが、川島先生によると、伝統的なイコン学の解釈には全く反する話であるとのことだ。以下、川島先生の講義に沿って書いていく。

 ラヴェンナの古代キリスト教のモザイクでも、ひときわ若く描かれた弟子がいたが、これは使徒ヨハネであった。聖書でヨハネという名前の人物には、洗礼者ヨハネ、使徒ヨハネ、福音書記者ヨハンとたくさんのヨハンがいる。この中で使徒ヨハンは若く、イエスに最も愛された人物である。そして、伝統的に若く描かれ、絵によっては女性のように見える場合もある。したがって、最後の晩餐でイエスの一番近くで若く描かれているのがヨハネであることは間違いない。

 同様に、聖書には、マリアと名前がつく女性が多く出てくる。聖母マリア、マグダラのマリア、マルタとマリア姉妹に出てくるベタニアのマリアだ。
 
 マグダラのマリアは、娼婦であったが、改心してイエスに付き従った人物である。また、復活したイエスが最初に姿を現したひとりである。死んだはずのイエスが復活したのを見たマグダラのマリアはイエスに触れようとしたが、イエスが「我にふれるなかれ」と制止した。また、マリアとイエスが結婚したという外伝があるそうだが、これは異端であると退けられているという。しかし、復活したイエスが最初に姿を見せるなど、いずれにせよ、マグダラのマリアがイエスに近い人物であったことは間違いない。

 また、ルカ伝には、名前は明記していないが、罪の女がナルドの香油という非常に高価な油をイエスの足に油を塗ったという話がでてくる。また別の福音書では、イエスの頭から香油をかけて自分の髪の毛でイエスをぬぐうという、見方によってはエロチックな話がでてくる。これは、マグダラのマリアである可能性が強いとされている。

 この香油をぬったことに対して、名前は明記していないが、弟子の一人がそんな無駄遣いをする金があるなら、貧乏人を救う方がずっと世の中のためになると文句を言う場面がある。これは、ユダの発言とされている。無駄遣いをしてイエスを歓待するよりも、本当に救済が必要な人間をその金で救う方が世の中のためになるという非常にもっとな発言である。ユダは非常に常識人でまじめな男だと思う。これに対して、イエスは、私の葬りの準備をしているのだと言って、女性の行為を肯定してしまう。ある意味世俗的な価値観を飛び抜けた発言である。

 3番目のマリアがベタニアのマリアだ。この人物は、マルタとマリアという2姉妹の妹の方だ。マグダラのマリアと同一視する説もあるようだ。

 このマリアは、イエスが家にきたときに、姉さんは一所懸命にイエスをもてなす食事の準備をしているのに、妹は姉の手伝いもせずに、イエスの足下でイエスの話を聞いている。頭に来た姉のマルタがイエスに妹に働くように言ってくれとお願いしたのに対して、イエスはマリアの方が大切なことをしているのだからそれを取り上げるなと説教したという。イエスの話は世俗の常識から逸脱している。その意味で、確かに香油の話しを似ている。

 また、このマルタとマリアという2人の女性像は、仕事をする女性と愛される女性という2つの女性像を象徴しているようでも興味深く、後世でも議論の対象となっている。
 
 
(ユダは救われるか?)

 最後の晩餐の反対側に描かれているのは、十字架の磔刑の絵である。真ん中は、当然イエスであるが、両側には2人の泥棒が磔にされている。左側の盗人はイエスを神の子なら奇跡を起こしてみろとののしるが、右側の盗人はそれをたしなめる。すると、イエスは右の盗人一緒に対して天国に行けると言う。これを象徴して、左側の罪人の上には悪魔と、右側の罪人の上には天使を書くのが通例となっている。

 ここで問題になるのは、悪党は救われるかということである。日本の仏教でも「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というような考え方がある。キリスト教でも悪人を含め万人が救われる。

 それでは、イエスを裏切ったユダまで救われるかどうか、これはキリスト教の神学理論でも扱われている深いテーマの問題らしい。

 一つの考え方は、ユダの裏切りがなければ、イエスの処刑もなく、その復活も福音もなかったであろうから、ユダは一つの役割を果たしたとするものだ。悪魔でさえ神の道具になるという見方である。しかし、このほかにも、人間自由意志の問題と神の救い、人間に内在するユダ的な部分の問題、布教の可能性など、深い議論がなされているようだが、ここではこれ以上立ち入らない。

 川島先生が最後の審判の解説において、ユダの問題を取り上げたのは、それがこの絵を巡る本質的なテーマであるからだろう。

イエスの死と人類の救済、裏切りと赦し。女子学生がどこまでこの話を受け止めたかはわからないが、絵を一つ見るのにも、様々な背景を理解して見ないと、その本質に迫ることができない好例であろう。

 
 
 
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